Small lab
2014年8月25日
《当事者と第三者》
地震、津波、原発事故の直接的な被災者を当事者だとする。では東日本大震災という出来事に対して、それ以外の人々は第三者なのだろうか。人命救助や遺体捜索を行っていた自衛隊員、警察官、消防隊員は、負傷者を診つづけた医者は当事者ではないのか。支援物資を運んだ人々は、炊き出しをした人々は、あらゆる形で被災者、被災地支援を行ったボランティアは当事者ではないのか。被災地以外の地で、被災地にいる家族や親せき、友人の無事を祈り続けた人々は当事者ではないのか。東日本大震災という出来事が発生した当時、第三者でいられた人間なのいるのだろうか。〈山内氏〉
当事者というと直接的な被害を受けた人々と社会は定義してしまう。それ以外は直接的に関わる時間で比例して、緩やかに第三者へとむかうグラデーションを掛けてしまいがちである。
当事者、第三者という立ち位置は被災の有無よってのみ決定するものではない。被災していなくても当事者性が獲得される場合もあれば、また一方で被災者でありながら第三者化してしまう場合もある。
Small lab
2014年8月17日
東日本大震災の記録と津波の災害史から。
災害の写真に添えられた言葉がとても印象的だった。津波は災害ではなく自然現象の一種と捉えた先にある言葉。
何気なく使用されている言葉たちがどれくらい問題視されないといけない言葉として横たわっているのかを再確認させられた。
未曾有ではないごく自然におきた現象として東日本大震災を捉えるのなら、今までの暮らしに戻ってはいけないです。
編集者であるリアス・アーク美術館の学芸員の山内宏泰さんのことばをお借りしながら…。
全ての言葉とはいきませんが、できうる限りまで考えて記録してみたいと思います。
Small lab
2014年7月21日
政治や戦争のことは書かないようしてるけど、パレスチナの問題、解決しないね。
イスラエルのガザ空爆によって多数の死者がでてる。
イスラエルに対する非難は当然だけど、なぜイスラエルが民家や学校に攻撃するか。
ハマスが兵器の保管場所を意図的に学校や病院にしてるから。
無関係な市民がいる場所に武器も一緒に移動させる。
市民の移動と戦闘場所が常に一致するという最悪な状況。
信仰の根深さにある我を通す問題。
・・・・。
やっぱり文章にしたくないね。
Small lab
2014年7月15日

「買った時に価値が下がるようなモノを選んではいけない。」
日常で、買うという事をほぼ毎日してます。何気なく買うパンも慎重に。体の財産になってますからね。
でもたまにジャンキーなものを食べたくなる自分。すぐ要らなくなるモノを買う自分。

Small lab
2014年7月4日
臨床性について。
建築家というのは、何か処方箋を与えたり、答えに導いたりすることと同時に、尽きぬ問いを生み出させ続ける働きも持っているのかなと。
「関係が関係それ自身に関係すること」を、やめない。これとこれの関係が世界なんですよ、と完結してしまわないようにすること。それも建築家の役割。
自分自身の仕事を、ある時他人事のような視点で眺める、どこかで大胆に無視する。そういう回路がないまま、完全な同化が果たされてしまうと、それは攻撃的なものにすらなりうる。それが、臨床性というテーマのきわどさなんじゃないでしょうか。だからどのように気持ちを通わせ、どのように無視するのか、それを、どう自分のなかでオーガナイズしていくのかということが一番大事。
臨床性というテーマを挙げたとき、共感のエスカレートが、かえって選択肢を失わせてしまう可能性がある。:学会誌 中山英之さんの文章より抜粋。
すごいです。思考とは「浅き川も深く渡れ」まさしくこの事です。
考えるということ、丁寧に掘り下げることをいつも心がけているのですが・・・。
Small lab
2014年6月12日

『ル・コルビジェの家』という映画。

内容はシュールでアイロニカルなお話です。

南米に唯一あるコルビジェの住宅を世界的な家具デザイナーが購入し、そのお隣さんの家が、改装の最中でコルビジェの作品を脅かすような窓を作ってしまい、お互いにするしないで大騒ぎするお話し。

たった一つの窓を許されない世界的な作品と、たった一つの窓にこだわり続ける無名のお隣さん。

その素敵なお隣さんがデザイナーに浴びせた一言。

『この土地のここに余っている陽の光を少し分けてほしいだけなんだ。』

『俺が欲しいのは君が使っていない陽の光だけなんだ。』

隣の土地の光をほんの少しわけてもらう日常。

うちの光、少しいりますか?とお隣さんにわけてあげる日常。

事務所の隣の土地。解体されて陽の光がしっかりわけてもらえるようになりました。

Small lab
2014年6月8日
世界に建てられた建築物で地球上の地表面をもっとも占めているのは家です。
その決定を左右しているのはそれぞれ個人の倫理観に委ねられている事がほとんどです。
この状況を冷静に判断したら少しこわいです。統治という事を求めているのではないですが、個人が世界視野で俯瞰できる世の中になったいま、地表面をもっとも占めている家が個人の価値判断で決定されているのは検討すべき問題かもしれませんね。
Small lab
2014年5月20日

多様性についての問題解決

いろいろなタイプや町の政策があるとき、パタンランゲージでは、それらに共通する普遍的なものを記述していきます。普段暮らす町でもリゾートの町でも、良い街であるからには満たしているべき共通のパターンがあるはず、例えば、先ほどの「歩行路の形」というパターンは、どのような種類の町にも言える事でしょう。政策の例で言うならば、不良債権処理と郵政民営化が政策である以上共通している側面があるはず。

それをパターンとして書く。パターンは抽象的に書かれるので、そのようなことが可能となる。

どのような「状況」でどのような「問題」が生じやすく、それをどのように「解決」すればいいのか、というセットに「パターン名」をつける
パターンランゲージより

Small lab
2014年5月15日

選択することをそのまま外の表現にしないようにする。

また、選択するものの条件として、できるだけ、人の表現といわれるものが介在してないものを選択するように注意する。

そのできる限り表現が介在されていない人間の必要なモノを選択したとき、その場所に置くうえで、どのような方法であれ、こちらが介在した痕跡を残すようにする。

その手法として、分解し、再構築するのもありだし、つくられた履歴を分析するのもありだし、別の科学を混在させるのもありだと思う。

エルディックオスカーソン。工場で使われるものや病院で使われるものは人間の表現という工程を踏んで世の中に出ていない。

所謂人間のエゴのない製品。そういった製品をどのような形で世の中に再デビューさせるか、それがデザインの仕事として重要な役割なのかなと。

ホームセンタ―・病院備品・工場部品

この二つの考え方をルールとしてデザインを決定していく。

この時に注意すべきは、世界を構築する途中にある家。これを代表する一つの答えとしてグリットが存在する。今までは。

世界を表す手段として編み出されたデザインの方法論がグリット。いわゆるモダニズムがその代表例。

しかしグリットを純粋な形のデザインとして決定すると、答えが単調化されかねない。新しい世界の途中である事が表現できればと思う。

家って人間が生きることの面倒くささみたいなものを正直にトレースしてしまう。塚本氏

家は人が生きるために必要な崇高ではない部分が露骨に現れてしまう。

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2014年4月2日

世の中というものは小さな決まり事みたいなものが集合して出来上がっている。

家はその小さな世界の寄せ集めの途中にある状態だと思っていて、その集まりが地域というやつになり、町という小さな集まりになり、国家という集合体が集まって世界というものが出来上がっているのだと思う。

その全体の集まりというものの途中に存在するのが家だと思って見つめると、面白い世界観が見えてくるんじゃないかと。

この途中というやつが味噌で、世界を構築する途中にあるという視点でみると、全体と部分を同時に見た世界として認識できるかなと。

世界のルールと、日常におけるルールは一緒ではないか、家がその流れの途中にあるという前提で考えることが重要なのではないか。

Small lab
2014年3月27日

変える事と変わること、ありのままの姿と綺麗に施された姿。

美容院という本来変わるための空間が、どのような然るべき姿が適切なデザインなのか。

美容院を工事する際に無意味かもしれない装飾の生地を工程途中に入れ込んでみる。

本来変わったと見せかける言語として使用される装飾を必要不可欠な仕組みに組み込むことによって、変えることと変わる事の心情を揺さぶれないかと考えてみた。

Small lab
2014年2月27日
非日常は、自分とは別の、すなわち他人の日常が自分にとっての非日常を指してしまう。 自分の日常に別の日常が重なり集まり合うことで家が出来上がっていく。
Small lab
展示というあらかじめ拘束された状況における表現という名の自由。 展示という決められた条件を一度のんだ状態で思考を広げていこうとする作業はむしろ滑稽ささえ付きまとう。 思考を縛るというまどろっこしさと思考に縛られるという安心感。 この二つの狭間で最近、いや、いつもうろちょろしてる。 もとい、人に自分を見せるというシンプルな行為に最近よく惹かれます。
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パブリックとプライベートの間に存在するコモンという概念。そこに集まる集合体が共通の認識を持てる空間。 そこには必ず排除という概念が付き纏うと坂本一成は言う。高級マンションなどにおけるコモンといわれる場所は、その高級マンションを手に入れる事ができた人々、その共同体のみが体験できる空間である。そこには必ず何かしらの排除という概念が存在する。その考え方が坂本氏は耐えられないらしい。 建築と日常P77
Small lab
「造園と建築は分かれてしまっているのか」と俳人、金子兜太御年94才は言う。 こんな質問に答えられる力量は全くないし、こんな事を考える余裕がない自分が少し恥ずかしい。 この質問に10年ごとに考えてみたい。

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2013年4月2日

社会をもうちょっと柔らかくすると秩序。 秩序をもうちょっと人間のスケールに変えるとルール。 だからルールはいつも人のすぐそばにあります。 ルールがないと自分でルールを造ってます。 若い時、どんな悪さをしても些細なルールが横たわってました。 ルールが存在しない事は人が人でないことをさします。 どんな設計にも豊かな約束事をつくります。
Small lab
調査とはそもそも何であるか。 設計をより着実な方向へと導くための要素といえば、なんとなくまとまりはある。 だけど事件を解決する探偵や捜査官は調査そのものが結果ととても密接なつながりを持っている。設計の場合はサーベイという何かを決定づける前段階といして調査を位置づける。しかし、事件解決のように調査がプロセスそのものとなった場合、建築設計は一体どのように進んでいくのか。 事件解決はあるべき結果をまだ見ぬ別の存在が認識するための行為。 建築設計は誰もまだ見ぬ別の存在を探し出す行為。 そのへんも加味しながら考えたいです。。。
Small lab
環境とは各生物の世界の環(円)がぶつかる境目を指すのだとユクスキュルは言ってます。 それぞれの環世界は必ず境界線が存在する。その境目に触れた時に新しい障害が発生する。 そういう意識を持って世界を俯瞰すると、環境とはどういったものかが、ぼんやり見えてくる。 環境を考えよう。 環境に優しくしよう。 ・・・・・・。 人間が捉える環境概念が微妙にずれてますね。
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ハリボテの美学。 中身が伴っていない美学。見せかけの美学という奴でしょうか。中々興味深いコトバで気になるんです。 どれがハリボテの美学でどれがそうではないか。その見極めがとてもむずかしい。。。 深い表現の重奏になっていた場合は余計です。 一度本質的な表現をしたあとに張り子をひっつけて、アイロニカルな表現に着地している場合は完全な確信犯。 そんな作品ゴロゴロしてるし、アートの世界であれば、作品に介入者が少ない分、わかりやすいかもしれないけど、こと建築となるそうはいかない気がする。 誰かが、白井晟一はハリボテの美学だと云いのけた。 う~ん。ハリボテの美学って。。。
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〈外見は中身の外側ですよ〉 天野祐吉の言葉です。 中々見つけにくいコトバです。
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コープ・ヒンメルブラウの建築。 70~80年代にこのグループは目をつむってドローイングをしてそれを建築するという試みをやってたらしいです。 この事についてはまぁ面白いことやってるな~みたいな感じで、こちらの知覚を刺激する内容としては、そもそも建築は構築するものであって、「組み立てる」という行為をしない恣意性が含まれる部分から、一体どのように建築まで着地するんだろうぐらいの深さまでしか考えられないけど、建築家の塚本氏は違ったです。 この行為を聞いて、塚本氏は下記のように答えました。 スケッチや図面の描き方が図形として輪郭が閉じるようにしか建築を想像できないようにしてあるのに対して、輪郭が閉じない建築を作るには目を閉じて、視覚的な統制を外してみたらどうかという試みだと思います。この場合の建築における建築性はむしろ、そのスケッチをもとに重力に抗って、人が中に入り込める空間として成立させていく意思や努力のほうに現れるのだと思います。 なんかもう、そこまで深く読めないよ。。。 知識の量が全く違うんだろうな。。。あと12年でここまでいけるかな~。
Small lab
年というか時期によって自分のデザインが微妙に変わります。興味がわく事柄が影響することもありますし、クライアントが影響することもあります。 結局、なぜ微妙に変わるのかあまりわかっていません。 戻りたい時期のデザインがあります。 今、とてもその時期の自分のデザインに戻りたいです。 戻る手段というか気持ちがわかりません。 何度も試みているのですが、戻れません。 今のデザインがいやというわけではありません。 ただ、あの時はもう少し、小さくデザインする事がとてもゆとりがあったように感じます。 何かまだよくわかりませんが、戻らないといけないような気もしてます。 病んでるわけではなく、今、気持ちにゆとりがあるからこそそう思うのかもしれません。
Small lab
二元論について。 最近どうも二つの概念の対立図を作り出す風潮が社会に蔓延しているように思います。 個人的に二元論が苦手になってしまう最大の理由は、必ずどちらかの論理が正しくないという状況を作り出してしまうこと。 それからもう一つは、どちらか一方の概念が崩壊してしまうと、一緒にもう片方の概念も潰れてしまうこと。 善と悪。精神と物体。原発と反原発。装飾主義と機能主義。 この議論における最も白熱する事は、相手の問題点がどのように社会的悪影響を及ぼすか。 いつもここに争点が置かれてしまう。すなわち人間にとってどのような方法が最も適切であるかと議論するのではなく、相手の考えをどのように潰すかに論理の軸が置かれている。 そもそもこういった概念が発生した場合、どちらにもとても大事な事柄がたくさん含んである。その事に双方が着目していけば、最も正しい概念が生み出されるかもしれないのに・・・。 そうなると二元論という言葉がなくなるか。。。
Small lab
設計は一番大きなところと一番小さなところをつかまえれば大丈夫だと思う。 中間は抜く。そこは人が住みこなす部分だから。
ここ数年でこの言葉ほど腑に落ちてるようで妙に納得いかない言葉はないように感じる。 うんうん、そうだよね。確かに。大きなところと小さなところ、この部分をしっかり認識してれば、設計は自分の領域から離れないよね・・・と思うんだけど・・・。 この中間という領域に建築家が触れてはいけないことが大前提のようになっているこの言葉に、いまひとつ腑に落ちていない自分がいる。 `住みこなす`この言葉の持つ領域は建築が立ち現れた瞬間から発生する言語なので、建築家が立ち入る場所ではないことは頭では理解してるけど、本当にこの`住みこなす`という言葉に建築家が入り込むことはおかしいのか。 住みこなす。着こなす。食べこなす?。乗りこなす。 出来上がったものをどれだけ理解しているかが、この`こなす`とい…う動作のポイントになっている。 あいつはホントにこの馬をよく乗りこなす。 彼はとても上手く着こなす。 対象物が普通より自分の領域に入れるのがむずかしい時にこの`こなす`という言語は使用される。 設計者が大きなところと小さなところを捕まえる。そうすれば自分の領域から離れない。その設計者が決定した自分の領域を住まう側、すなわち自分(住人)の領域に入れるのがむずかしい時に発生する`こなす`という言語。
あ、なるほど。そういう事かぁ。 相変わらず理解が悪い自分が嫌になる。
Small lab
設計の集団化について。
集団によるクリエイティブは可能か。ちょっと軽い感じの内容になってしまうけど、真面目に話し合うと何年もかかる内容なので・・・。この議論はもう40年くらい浮いたり沈んだりする話題だけど、今の時代が一番活発な議論になってるんじゃないかと思う。だけどアルゴリズムなんてすでに建築設計の世界では寂れてきてる・・・でも建築の世界におけるアルゴリズム(自動生成)という奴は、実際にはまだ誰もきちんと形式化できていないように思う。 例えば、ある総体性をもった言葉を綺麗に細分化できるくらいまで情報分析して、あ、「総体性」とは、ヘーゲルにしたがえば、体系化された全体のことであって、つまり「総体性」とは、運動によって展開された全体を一つの原理のもとに体系的に総括したものだけど、この一つに総体化された言葉、例えば○○商店街という言葉をきれいに情報整理してある別の大きく総体化された言葉。例えば○○球場という総体性を持った言語とを破綻しない発明された数式に当てはめて自動生成していくと・・・。まだ見ぬ存在しない新しい形式言語が生まれるんじゃないかと・・・。 あ、完全に集団によるクリエティビティから踏み外してますね。。。 完全に長くなる空気だし、これを消すのも忍びないので、今のところの結論。 船の船頭は二人いては成立しない。という事で集団による創造の決定は無理。今のところ・・・。 建築におけるアルゴリズムさえしっかり構築できればあるいは・・・。
Small lab
音楽の先回り。
だいぶ前に忘れてきたことをふと思い出すことがある。 思い出すという感情だけ手に入れて、それがなんなのか全然わかってない。 取り行かなくっちゃいけないはずなんだけど、それはもう間に合わない感じ。胸が締め付けられるような感じになる。 後悔という感じより、やってしまったような・・・少しだけ心地よくて、二度と手に入らないことにすごく悲しくなる感じ。 Dustin O’HalloranのOpus23という曲はそんな感情が一気に入り込んでくる。 空間でそんな感情が入り込んできた体験は一度だけあるような気がする。 設計という名の決定の先回り、この反則じみた手法でそんな空間を作ることはできるのだろうか。 このように感じてくださいと、音楽は先回りしていない。 現代建築はこのように感じてくださいと先回りすることがよくある。 音楽はどのように決定して外界に表現しているのか
Small lab
意味が多重化するようにつくる。 人に見せるという行為(表現する)まで繋がるようにできたら、必ず守っている事がある。 表現されたものが一方向へ向かわない事。その作られたモノが考えるという方向を様々な場所に着地できるように設定すること。そんなことを注意しながら作っている。 建築は考えさせなければならない。 その教えは建築に限らずどんなものでもそうあるべきではないかと思う。 直感的感動より思考の方が自分にとっては好み。 そのつくられたモノが「一体何であるか」というより「何々かもしれない」という思考の方が好み。 右と左が議論するような極端な思考同士ではなく、反対意見も言いながら、ひょっとしたらそっちの意見も捨てがたいなと思うような思考が好み。 多重化をどのようにつくられたモノに組み込むか。難しい問いです。・・・こんな思考が一番好み。
Small lab
宮内優里のライブにて。 今回が二度目。 彼の音楽は音をその場で録音してその音を反復させ、また新しい音を足して音楽というモノをその場で作り上げていく。 いわゆる完成した瞬間に曲が終わるみたいな感じ。 ギターの音色を録音し、その上にトライアングルの音を乗せて、ハーモニカの音を乗せて音の重なりが、音楽という感じのものに仕上がっていく。 だから実際にもあったけど、その場で乗せた音色が変だったら、その音色がそのあとの音にずっと残ってしまうので、この曲そのものが失敗に終わる。(ライブでも1曲途中で中断して最初からやり直した) エレクロニカポップなので、とても幸せな音色なんだけど、製作過程を勝手に覗いている感じなので、妙な緊張感が漂ってる。 この重なっていく製作をデザインの決定に応用することは可能かずっと考えていた。 正しいデザインのフレーズみたいなものを反復してそのフレーズをひたすら重ねていく。その過程をやり直さない。 ひたすら足していく。・・・なんかこんなこと誰か言ってたな。
Small lab
建築の原産種について 建築に原産があるという前提で考えてみたらどうなるのだろうか。 これは何々産のデザインです。みたいな。 犬にしても農作物にしても元々その風土と関係してその形成物は成り立っているわけだから、デザインにも何かしらの原産があっても良いのではないか。 例えばジャン・プルーヴェなんてエンジニアリングとプリコラージュの混合種なんじゃないか。 「野生の思考」プリコラージュと「栽培された思考」エンジニアリングが混ざってしまって生まれたのが、プルーヴェの混合種です。みたいな。 あ、脱線しそうです。 とにかく、民族デザインにしろ、宗教デザインにしろその風土で決定された核みたいなものが当然あるわけだし、そういった部分をちゃんと整理する時期に来てるんじゃないかと思う。自分の役割じゃないけど。
Small lab
自由とは、どこかへ立ち去ることではない。 考えぶかくここに生きることが、自由だ。 樹のように、空と土のあいだで。
長田弘の「空と土のあいだ」の詩の一節である。 とても影響を受けた建築家が好きだった詩人である。 いつの間にか、というかいつもの事ながら、わたしも好きになってしまっていた。 樹の自由、まだうまく感じれていない気がする。
空と土、そのあいだに居さえすれば、死んで生まれを繰り返すことができる。… それが樹の自由 なんか違う。 じっと、そこにとどまることで見えてくる豊かさは立ち去る自由より豊富だ。 それが樹の自由 う~ん、ちょっと比較論みたいだね。。。
空と土のあいだにすべてがある。そんなこと想像するだけで自由だ
Small lab
重力と樹力 建築が重力に逆らうことと樹が重力に逆らうことは当然のごとく大きく違う。 樹がカタチを成していくこと、すなわち重力に逆らうことは必ず時間と密接な関係にある。 大きさと年月は必ず比例してる。 樹齢100万年の木とかあったらどれくらい大きいだろう。 高さ8000メートルの木。 そんな木があったら、そこに別の世界ができるんじゃないだろうか。 重力に逆らうことを恐ろしく早回ししているのが建築。 建築には必ず重力のメタファーが入り込んでる。 早回しするからだ。… 樹はひょっとして、逆らっているのではなく、太陽に近づいているのかもしれない。 だったら別の世界が本当に存在するかもしれない。 しないか・・・
Small lab
「僕たちが毎日を生きている瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい」 星野道
星野道夫について少し考えた。 彼は小学校の卒業アルバムの寄せ書きにこう綴った。 「浅き川も深く渡れ」 子供らしい汚い字でこう書かれていた。 小学生がどこまでこの文章を深く捉えていたかは想像しずらいが、いま自分が深く考えるのも難しいほど、深く、長い文章である。 二十歳からの彼はほとんどをアラスカで過ごす。 クマをひたすら撮り続けた写真家である。 星野はアラスカのクマのなかで最も危険なのは、国立公園にいるクマだという。大勢の観光客が訪れる国立公園では、本来、クマが人間に対して自然に保つ距離が取れない状況になってしまっている。人間との距離感が麻痺してしまっているクマとの遭遇は事故が起こりやすいというのだ。…
「彼は基本的に銃を持たない。銃をもつと銃に頼りすぎて、動物と対面する場面で必要な緊張感を失い、不用意な行動をしてしまう。その方が問題だと考えていた。グリズリーと何度も関わって、そのたびにグリズリーがその時々きちんと的確に自分の感情を表現するのを読みとっている。だから手の中に銃があるばかりに、脅威でもないものを脅威と妄想して撃ってしまう方を恐れた。クマを軽んずるのではない。クマに対して必要にして充分なだけの畏怖の念が彼にはあったのだ。」
その彼が、どうぶつ奇想天外の取材でロシアのカムチャッカ半島を訪れて、クルーとは別にテントで一人寝泊りしていた所をヒグマに襲われて死亡した。 クマを誰よりも信頼し、誰よりも熟知していた彼が、クマに襲われて亡くなった。 人を襲うのはクマの環境という名のクマの環(エン)の境(サカイ)に人間が触れた時だけである。 その境界に星野は触れてしまったのだろうか。
星野道夫が亡くなったあと北米クリンギット族のメディスンマンはクマの姿をしてベアダンスを踊って星野の霊を弔った。 「人間は生まれてくる時に苦しくて大泣きするが、まわりの人たちは新しい命を大喜びで迎える。正しい死に方はその逆で、本人は満ち足りた心で死ぬがまわりの人はその人を惜しんで大泣きする。」
星野を襲ったヒグマは地元テレビ局の社長によって餌付けされていたヒグマで、人間のもたらす食糧の味を知っていた個体だったのである。 星野は満ち足りた心で亡くなったのだろうか。
Small lab
事務所にあった司馬遼太郎の「人間というもの」をパラパラ再読。
少年から大人~『菜の花の沖 三』 しかし大人というものは仕様のないもので、子供がもっている疑問を持たなくなる。
天地人の様々な現象について~なぜそうであるのかという疑問を忘れたところから大人は出来あがっている。
「なぜそうであるか」と「そういうものである」、この違いは大きいねぇ。 こんなこといちいち書こうしてる感じが老獪だねぇ。 …
『竜馬がゆく』 「老獪ねえ」 おりょうは、漢語でつぶやいた。
おりょう 「あなたは、はじめのころの純情(うぶ)なところがだんだんなくなってきたわ」
竜馬 「純情だけでは、人間の乱は鎮められんからな」
おりょう 「私、人間の乱?」
竜馬 「いや、天下国家の乱をいっている。古来、英雄豪傑とは、老獪と純情のつかいわけのうまい男をいうのだ」
おりょう 「顔をあらっていらっしゃい」・・・。
顔あらってこよ・・・
Small lab
アニメフェスにて。 シティーという短編アニメが建築的に印象に残った。 大都市で全ての人を裸で表現したらどのように映るかという試み。数万の人々が裸でエレベーターを待ち、裸でパソコンを打つ。なんだろ、普段自分もいつもやってる行為ばかりがそこに映し出されているのに妙に恥ずかしくなる。裸だからとかじゃなくて、何だか‘生きる’という事と直結してない感じが妙に見てて恥ずかしいというか情けない感じが満載である。 都市における日常の所作がこんなに醜いとは・・・。 田舎の所作と比べてみたいものだが、きっと田舎の裸は生きるために必要な所作が裸で見ても躍動感に満ちてるのではないかと勝手に想像してしまう。 電車で携帯をいじってる裸の集合なんて、もう最悪である。 こんな動きを何十年も繰り返して年を取るって・・・
Small lab
日比野克彦の-100の指令-という本 ・自分の歳と同じ年のものを探してみよう。
・林檎はなぜりんごと言うのかいろいろな人に聞いてみよう ・自分の影を切り離してみよう。
・家の中にある一番古いものを探そう。 ・一日で見た生き物を全部覚えておこう。
・帽子の中に秘密の言葉を書いた手紙を入れて街を歩いてみよう
100の指令。
どれも実現可能でどれも日常でどれも子供のころやってたかもしれない指令。 教育とはなんであるか。学ぶとはなんであるか。
Small lab
エネルギーとは物事を成し遂げる活力だと理解した場合、省エネルギーとは、人間を豊かにしていく装置をいかに効率的に捉えるかということ。しかし、それ以上にこの豊かという言葉をもう少し拾い上げる時代がきたのではないか。    人間の日々の振る舞いや活動に対する意識をどのように変えていけるかも、今後の環境を考える上でとても重要な課題だと思っています。 人間は様々な活動をしていく上で何かしらのエネルギーを放出しています。 その人間の活動を社会に還元するシステムは徐々に構築されつつあります。 駅では改札を抜ける時に踏まれることによって発電する仕組みは2005年から始まっていますし、精密機器の分野では、人間の心臓鼓動によって携帯が充電できる仕組みが開発されました。 このような開発には賛否両論もありますが、建築も人間の活動や振る舞いが、建物の持つ性質にとても密接に繋がることができれば、新しい街の形を見つける事ができるのではないかと期待しています。 すべてのエネルギー、すなわち何かを成し遂げる活力、それが循環していく社会を実現することができれば、新しい社会のかたちみたいなものも見えてくるのではないかと思っています。
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ちょっと問題整理と解決のため散文で稚拙な文章を書くので悪しからず。
いまエネルギーは無駄を統合する作業に入っている。 ある目的で発せられるエネルギーは別の側面を持ちながら、目的を達成する事が多々存在する。 いわゆるエネルギーを出した瞬間から別のエネルギーに還元されるシステム、それが今最も重要なエネルギーの扱い方ではないか。 エネルギーを省くことは悪い事ではないが、動かない事が良い事だということとは全く別問題。 だから車が消費エネルギーを減らしていくことはとても良いことだが、イベントなどを縮小していくことは全く素晴らしい事ではない。 先ほどのエネルギーの統合で例を挙げれば、冷えた空気を生み出すために暖かい空気が出てるのをどう扱うか。 ガスを生み出すために電気が吐き出されているのをどう扱うか。 これは別に機械に限ったことではないことに注意を向けたい。 例えば笑うというエネルギーが何か不可視なエネルギーを生み出してないかとか、人を褒める時に別のエネルギーに還元できるものが出てきてないかとか、テクノロジーの役割はそういったところに集中させるべきだと思う。 表情で運転できる車も開発してるみたいだし・・・。
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玄関のルール
玄関ほどその家の雰囲気を表すものはありません。 家の中で最もいろんな人が見ます。 玄関だけ立派に作り込みすぎるのもおかしいでしょうし、他の部屋を優先しすぎて、追いやったように小さくするのも良くないでしょう。  玄関はその家のイメージを表す役割を担っています。それはここに住む家族を表しているともいえると思います。 だからこそ、家の中で最も正直に考えながら作っていく必要があります。  大きく見せすぎると恥ずかしい感じがしますし、小さくしすぎると、迎え入れるにはやさしさが足りない感じがします。だからこそ玄関は、自分たちを表す鏡だといつも気にしながら考える事が必要な気がします。
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ディオニュソス的本性の逆襲 ニーチェ曰く、文化というものは一般的に二つの本性から生まれることらしい。 その二つとはアポロン的本性とディオニソス的本性。 アポロン的とは夢の中で提示されるイメージを具現化することである。自己解釈ではあるが、創作者の主観から生まれるイメージがそのまま社会に立ち現れ、外形や視覚に快を与える現象のこと指す。 一方、ディオニソス的とは歌と踊りで体験される陶酔である。即ちある場の条件は人間の高揚感から発せられるエネルギーによってその場所の条件が決定されるということである。わかりやすく言うと舞台(空間)は演じる側の動きによって生命を吹き込まれているということなのである。 現在のモダニズムも含め、すべての建築がアポロン的本性によって文化形成されているのではないか。 歴史のことはよくわからないけど、ディオニソス的本性で空間が決定されたことが現在までにあっただろうか(空間という概念自体1890年以降だけど) 一人の意思決定のみではない建築が出来上がるまで、社会がようやく成熟してきたように思う。
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ドローイングの描写について 建築という出来上がるイメージをどれぐらい外側(もしくはとても内側)の状態にとどめて描写できるかが重要。 その描写の曖昧さが限りなく本質に近く、できるだけ現実(実際の建築物)より遠い方が良い。 あまりに写実性が高いと、想像の入り込む余地が存在しなくなり、実際の建物に対する欲望よりドローイングの描写完成度そのものが欲望の対象となってしまう。
ピーターズンドー ドローイングの際には非本質的なものに逸らされない程度で、自分が求める基本的な雰囲気がつかめるような微妙なところで視覚的描写をとどめている。 ドローイングはたんなる観念の写しなのではなく、建物の完成をもってはじめて終結する創造行為の一要素なのだ。
Small lab
土地の持つ潜在的な魅力とそこを使うであろう人々の振る舞いというか意識みたいなものが、すっと合致する条件が見つかれば、建築物は否応でも良質となる。 問題はどちらも欠けず、その内なるものを建築家が見つけることが出来るかどうか。 土地の内なるものはとても透き通って見えやすい。 人の内なるものはよく濁る。 こちらもよく濁る。 あまりかき混ぜるとますます濁る。 よく一度寝かしてみると濁ったものが沈殿してまた見えてくる。 今日も一度寝かしてみた。
Small lab
瀧口修造 狂花思案抄  花は活けた瞬間から土から離れる。人間から見た花を活ける。花から見たら生贄の事だろうか。そもそも活けることを動詞で表現する。押す、挿す、切る、落とす、盛る、立てる、活けるために切る、活けるために落とす、活けるために立てる。活けるという目的と動詞の関係が強者の制圧と弱者の犠牲に聞こえるのは私だけだろうか。 活けるという行為に人間が花を生贄にする、狂はおどけると同時に外れるという意味を持つ、狂花とは季節に咲く花がずれて咲く花のことを云うのだろうか。狂うのはいつも花ではなく活け手ではなかろうか、人が花を狂わす。供花とはそもそも墓場で死者とともに花を生贄にする、花は土にいるかぎり自然の周期とともに何度も蘇る。同じ花が同じ場所で。 もし人間の手によって活けるというのであれば、老いてく人間とともに花を活けるのは生贄ではなかろうか。無常観は花にも存在するが人間によってではない。無常…の風-風が花を散らすように、無常が人の命を奪い去る。花が活きる。そんなことはない、花は活けた瞬間人間の無常に変わる。
Small lab. 花は生けることによって活きることはない。無常観、一切のものはさび、くちていく、モノは絶えず変化する。人間が無常にも死を迎えていくことに耐えられなかった先人たちは、仏教の教えの輪廻を待たずして同じ場所で毎年生命を迎えるあの花を供に選んだ。これは生贄か、それとも少しでも花の力を願った先人たちの感受性がそうさせたのか、今、その小さな願いが込められ供に朽ちていく花などどこにも存在しない。人間の表現物に取って代わり、流儀を生み、組織を生み、でっかいビルを生んだ。かつて人間の小さな願いと供に朽ちていった花が咲いていた場所に・・・。
Small lab
設計(デザイン)は何か新しい世界を生み出す豊かな想像力を持っていないとできない。 新しい世界を作り出すとは?みたいなことを必死に考えていた若いころが懐かしい。
設計というのは結局、ものの選択とそれの集合の仕方しか結局やっていない。 もともとこの世界にある出来事やものを次の表現(作品)の時にどのように選んで、どのように混ぜ合わせて表現するかに過ぎない。 そういった、ドライな見方をすることによって始めて自分がつくったと思い込んでいる表現を客観視できる。 選んだという事実を無視して、生み出したと勘違いをしながら表現しつづけていると、脈略と続くデザインの歴史も無視することとなる。 こんな考え方だと夢も希望もない。まぁこうやって、言語という媒体を使ってドライな自分を外に吐き出しておけば、ロマンチックな思考が内側からじわじわ起きだして、ちょうど良い感覚で表現が着地するような気がする。最近は。
この文体もすべて、この世界に存在する文献から選択してレイアウトしたに過ぎない。
Small lab
建築が置かれるとき 建築は現実社会に落とし込まれる前に必ず設計図という媒体物を作り出してからスタートする。 現在の社会はとても情報整理が重要でその構築に躍起になる建築家も少なくない。 この構築されたメタフィジックなモノが社会に落とし込まれるためには、構造のむずかしさや政治的絡みや、その場所にもともと存在する昔のものが混ざった状態で建築を成立させなければならない。 いわゆるレガシーシステムに新しいシステムが入る時に必ずむずかしい問題が絡む。 アトリエワンのように既存を肯定して設計を進めるか、藤本壮介のように既存を全て無視して原理を追及するか。 どっちかな
Small lab
舞台。良質な舞台は限りなくルール設定を増やす。 これはしない。これはしていい。 ルールを増やすだけ増やすことによって、シンプルなテーマを惹きたてる。アクターも限りなく減らす設定を組むことでテーマはより鮮明になる。 ラーメンズの舞台構成は当然の如く二人舞台だ。 二人舞台はよくある構成だけど、ラーメンズの魅力は舞台の設定がほとんど二人称になっているところ。 聞き手と受け手の設定以外に別の人物像を浮かび上がらせる設定になっていない。舞台という箱(構造)以外の想像を必要としない。 そういう入念な操作を建築設計条件にも当てはめるなんて考えてるわけじゃないけど・・・ ラーメンズ、最近活動してないみたいだね。 片桐はエレカタとかいう舞台やってるし・・・。 小林は2年前に何故か建築学会誌に載るし・・・。 もう一度舞台という名のお笑いが観たいですね。